
| 山田錦倶楽部の主宰者、JAみのり代表理事組合長神戸秀典が、山田錦の育ての親である灘の蔵元のお話をお伺いいたします。 |
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第3回白鶴酒造株式会社
取締役生産副本部長 製造部長
小谷真吾氏
製造部醸造二課 主任 古川浩正氏
所在地:〒658-0041神戸市東灘区住吉南町4丁目5番5号
Tel:078-822-8901 Fax:078-822-1456
HP: http://www.hakutsuru.co.jp/
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小谷真吾氏 |
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 白鶴酒造資料館 |
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清酒ハクツルは、寛保三年(1743)、灘五郷のひとつ御影郷(現在の神戸市東灘区御影本町)に生まれました。
当時は、有名な力士や俳優の名前をその銘柄として用いていた酒造家が多かったようですが、その風潮に流されることなく、延享四年(1747)、優れた酒質を表すのに相応しい名前をと千思熟慮の末、白鶴を銘として付することとしました。
その超然たる態度、楚々とした容姿、瑞祥溢れる飛態は秀でた品質を示すのに実に比類ないものと考えたからです。現在、2,000社余りある酒造メーカーの中で、白あるいは鶴の字を使う銘柄が最も多いと言われています。
(白鶴HP「会社案内 白鶴ブランド」ページより引用
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●将軍吉宗の時代、灘の躍進期に創業
神戸組合長(以下神戸):灘の蔵元さんは大体が江戸時代、世の中が安定してきた頃に創業されたところが多いようですが、白鶴さんの創業もその頃でしたね。
小谷取締役(以下小谷):そうです、寛保3年つまり1743年の創業になります。ですから今年で258年になります。
1603年に徳川幕府が誕生して140年、8代将軍吉宗の時代ですから、社会全体が安定して江戸がどんどん大きくなって文化レベルも上がった時期に創業した訳です。
当時この御影(みかげ)の地で材木商を営んでいた「嘉納治兵衛(かのうじへえ)」が、その財力を活かして、材木屋を続けながら酒造業に乗り出し、業態の拡大展開を行ったのです。
これ以前の時代は、京都・奈良の貴族や一部高級武士階級のための、宮中や神社、お寺での酒造りだったのが、信長の時代あたりから各地の城下町が発達するにつれ、奈良・京都から徐々に伊丹・池田、大阪、灘方面へと産地が広がっていきました。
そして江戸時代になると江戸の人口が爆発的に増加し、消費が拡大して庶民の酒ともなり、品質がよい上に、海に面し帆船による大量輸送に適した灘が、代表的な産地に発展していく訳です。
神戸:NHKの大河ドラマでも数年前やっていましたけれど、将軍吉宗の「享保の改革」で経済の引き締めが徹底して実行され、ちょうどその仕上げの頃ですね。一旦デフレに陥っていた経済を、将軍吉宗が小判の改鋳で通貨供給量を増やして、一挙に好景気をもたらした直後ですね。 (参照:日本銀行金融研究所貨幣博物館HP )
小谷:当初は生産高も少なかったのですが、創業から42年後の1785年に業績が大きく伸びました。吉宗の改革で新田が人口の増加を上回って大幅に増えた上に豊作が続き、比較的自由にお米を入手して使えるようになったのです。
当時、各大名は領地からの年貢米を、商人に売って歳費に当てていました。
集まった米はまず食用を優先し、余った米が酒造りに回ってくるかたちだったのですが、これは各大名が米の価格の暴落を防ぐ為に、一般市場に回さないで酒造りに米を回したのです。それを伊丹・池田や灘の蔵元が買ったのです。
当時からお米の外側の糠(ぬか)の部分を取り除いた白米で造ると、上品で木目の細かい酒質になることが知られており、灘では六甲山系の急流を利用して一早く水車で一度にたくさんの米を精度よく搗く(つく)ことができるようになりました。要するに機械精米です。
それに対して、他の産地ではシーソーのような足踏み式の精米が主流だったのです。それで灘の蔵元は一挙に良質のお酒の生産量を増やす事ができたのです。
加えて酒造りにとって大切な水ですが、よく知られている「灘の宮水」がやや硬水で酵母の働きに非常に有効な成分を含んでいるため、良質なお酒を造るのに適していました。また仕込みも雑菌汚染の少ない寒造りに集中したので、品質的にも向上しました。
最後に、出来たお酒を江戸まで運ぶのに海路を利用した樽廻船が使われていましたが、大阪湾に面した灘は最適地でありました。つまり、酒の生産能力の大きさ、原材料等からくる品質の良さ、物流の良さ、これら3つの大きな要素が揃っていたのが灘でした。
●高度な技術と生産力で江戸の清酒消費を席巻
神戸:灘は江戸時代にすでに全国制覇とでもいうか、一大産地として確立しましたが、こうした時代から当方の地域とのお付き合いをしていたわけです。ではこの当時は清酒の原料米はどんなものだったのですか。
なにしろ江戸時代には科学的な理論も無かったわけですからね。
小谷:当時は酒造好適米などと呼ばれるようなお米はなかったと思いますが、色々な産地の米を使用して行く中で経験的に酒造りに適したものとそうでないものに選別し、キレイに精米をして仕込みに使うことが行われていました。
お米の選別と精米に力を入れて行なったのが灘だったのです。
当時の酒造りに適していると言われた攝津・河内の米は伊丹・池田の蔵元が主に使用していましたので、灘は六甲山の北側の播州地方、つまり今のJAみのりさんの地域の、言うまでもなく気候風土が最高の条件で育った播州米を使い始めた訳です。
ところで伝承的には14世紀半ばの元弘・建武の時代には既に灘で酒造りがされていたとされており、寛永(1624年〜)年間に伊丹から蔵元が移住してくるなどを経て、主産地へと本格的に発展していったのは文化・文政(1800年代前半)の頃です。
同時に酒造労働者であり技術集団でもある杜氏達も丹波から進出してくるようになったようです。
昔の蔵と言っても灘は規模が大きく、千石(18万リットル)程度生産する蔵を蔵元がいくつも持っていたわけです。精米こそ水車での機械精米が出来ましたが、当時それ以外はすべて手造りですからそこにいた蔵人の数たるや、大変なものだった訳です。
この播州米と丹波杜氏も、灘酒の名声を大きく高める力になりました。
神戸:江戸で消費される量の7〜8割が灘の酒だったと言われる程の大規模生産が行なわれていた。その陰に、江戸時代から灘には大変な数の技術集団がいたということですね。 |

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