灘の蔵元巡り
山田錦倶楽部の主宰者、JAみのり代表理事組合長神戸秀典が、山田錦の育ての親である灘の蔵元のお話をお伺いいたします。
第2回
辰馬本家酒造株式会社

取締役社長 辰馬たつうま章夫氏

所在地:〒662-8510兵庫県西宮市
建石町2番10号
Tel.0798-32-2761 Fax.0798-32-2760
HP:http://www.hakushika.co.jp/
辰馬章夫氏 白鹿記念酒造博物館
白鹿記念酒造博物館
(下記「記念誌」より)
黒松白鹿マーク白鹿の名前は長生を祈る中国の神仙思想に由来する。
唐の時代、玄宗皇帝の宮中に漢の時代「宜春苑中之鹿」と、千年をさかのぼる銅牌を付けた白鹿が迷い込み、皇帝がこれを瑞祥として喜び愛養したという話があり、「白鹿」の名はこの故事によるもの。
江戸時代の看板にも「宜春苑 長生自得千年寿白鹿」との銘が打たれている。
神仙思想というと、何やら玄妙に響くが、長生願望そのものはいつの時代にもある。自然のはかり知れない生命力を滋養とする考え方は古いが、しかし新しい。清酒「白鹿」もそこから生まれ育ってきた。
「白鹿」の名には、三百三十余年前の昔から、自然の大いなる生命の気と、日々の楽しみと、長寿の願いがこめられている。
(「辰馬本家酒造三百三十年記念誌」 平成4年 辰馬本家酒造株式会社発行から要約)

●江戸への下り酒で伸びた灘・白鹿
インタビュー風景
神戸組合長(以下神戸):灘の蔵元は江戸時代の初期に始められたところが多いようですが、白鹿さんはいつ酒造りを始められたのですか。

辰馬社長(以下辰馬):私どもの創業もちょうどその頃で、1662年(寛文2年)徳川4代将軍家綱の時代です。今年で創業339年になります。

日本酒の歴史自体はお米が日本に入ってきたころから造られていたわけですが、商売として発達したのがこの頃、江戸という巨大マーケットができてからでございます。それまでは朝廷、神社などのお酒でした。
当時は上方(かみがた)今の関西に向かうのが上り(のぼり)でしたので、上方から江戸への酒は「下り酒」(くだりざけ)と言われておりまして、灘から樽廻船で江戸に運びました。江戸では茅場町(かやばちょう)辺りに酒問屋が沢山ありました。現在でも当時の残像が感じられる土地ですね。
初代は辰屋吉左衛門で、当初「辰馬」の「馬」が付いていませんでしたが、代々当主が襲名して私で15代目になります。

神戸:灘の酒は、昔から酒米として評判の高かったJAみのり地域の播州米が近くで採れ、六甲山からの宮水が得られることで酒質が良く、灘が酒どころとして有名になったんですね。

辰馬:それに今でこそ四季醸造でいつでも仕込みが出来ますが、冬の間灘には冷たい六甲おろしが吹き、これが寒仕込みに適していたんですね。こうして造った酒を樽廻船で江戸に向けてすぐ運び出せることも、当時酒造りに灘が選ばれた理由です。


●海運業の利益を注ぎ込んで生まれた高級酒「黒松白鹿」
樽廻船
樽廻船(前出の「記念誌」から)
神戸:江戸時代、灘は江戸向けの酒で伸びたわけですね。明治維新で社会が混乱しますけれど、明治以後の白鹿さんはどうだったんですか。

辰馬:幕末近く10代目吉左衛門は西宮酒造家の総代になった人でしたが早世し、11代目当主が若年のため10代目夫人「きよ」が店員辰栄之介を訓育して繁栄の確固たる基盤を築き、辰馬家中興の祖と呼ばれています。
10代目から11代目にかけて江戸積樽廻船を発展させ、北前船での販路も拡大し、当主を継いだ時の10倍まで拡大しました。
ですから明治維新もうまく乗り切って業績を伸ばし、造石数日本一にもなりました。
また明治中頃には11代目の妻「たき」が12代目当主となりました。白鹿では代々女性が強いんですね。(笑い)

大正時代に入った頃、親戚筋の「白鷹」から養子に迎えたのが13代目です。私のおじいさんですね。
13代目は後に山下汽船になる辰馬汽船という海運会社を興し、酒だけでなく一般商品も運ぶようになり成功を収めました。その後第1次世界大戦で海運が当たり、その利益を酒造りに投じました。
「酒質に金をつかえ」と、当時日本一の販売量を誇っていた白鹿の51の蔵同士を競争させ、「品質のためだったらいくら金をかけても良い」とのことで、良い米を沢山買いました。
そして大正9年に特に酒質の良いものだけを集めて売り出したのが、高級酒の代名詞となった「黒松白鹿」でした。  (詳しくは白鹿HPを参照

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