●加藤清正公の末裔
加藤代表取締役(以下加藤):今日は、遠くまで組合長自らお越しいただきましてありがとうございます。
神戸組合長(以下神戸):こちらこそいつも兵庫の山田錦を買っていただいておりまして、まことにありがとうございます。何はともあれ、冨士酒造さんのお蔵の歴史をお伺いしたいのですが、いつごろからお酒をお造りになっていらっしゃったのでしょうか。
加藤:安永7年と言いますから西暦1778年。アメリカ人にはお国の独立2年後だと言うと分かりやすいんです。
私で12代目になります。 当家には伝承がございまして、熊本で加藤清正公が没後、江戸幕府の外様のお取り潰し政策によって、その嫡男である忠廣公はこちらの酒井の殿様に単身預けられたわけです。
そして出羽国庄内・丸岡で生涯を終えることになるのですが、そこで一男一女をもうけた内の女の子の方が、当家の先祖であると言うことです。
この辺りのことは昭和43年に熊本日日新聞で加藤清正熊本入城400年特集が組まれまして、その折に私も男の方の末裔の方とそれぞれ記事と写真が掲載されました。
神戸:やはりお蔵元にお伺いしてこういうお話をお聞きしますと、実感として日本酒の背景となっている地域文化は奥が深いと思います。お酒といっしょに味わいたいものですね。
加藤:私どもの蔵のありますこの鶴岡市大山地区は、庄内藩の酒井家が治める前から戦国武将の武藤氏の領地だったんです。それが幕府直轄の天領になりまして、年貢が低かったんです。
庄内藩が6公4民だとすれば大山は4公6民で、酒に掛けられる税金の「冥加金」も周囲の庄内藩領の1/3だったと言います。
昔は水車で精米をしていましたから、近年まで名残りの場所が何箇所かありました。
要するにお米が安く手に入る地主酒屋が原料を高精白して、程度の良い酒を造って売ることが出来たんです。
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加藤清正公由来の蛇の目の家紋 |
品質が良くて価格競争力がありますから、「大山酒」は庄内藩でドンドン売れるわけですね。それで大山に蔵元が次々と出来たんです。その名残で今でも親戚に昔の蔵元が多いですよ。
しかしそうなると当然庄内藩内の蔵元から規制の声が上がり、「大山酒」は舟、馬車を使って運んではいけないと言うことになり、「大山酒」は人力で運んだと言われます。
また枡で量ってもいけないとのことで、計量用の茶碗を作って「茶碗売り」と言う手を使ったりしたそうです。
ついには天領だった大山を庄内藩へ編入しようとの動きが出て来まして、これに対して大山騒動と言う、蔵元と農民が一緒に首謀者になった一揆まで起こりました。
神戸:なるほど、言うならば昔から「大山酒」なる強力なブランドが形成されていた訳ですね。
まるで現在の経済特区制のようなものですね。
山崎:鶴岡市立図書館に所蔵されている文献によりますと、当時数多くあった大山の蔵元には日本の名所を標ぼうするものが幾つも見受けられ、うちの蔵の「冨士」もそれに倣ったものと思われます。
時代が下って昭和30年代に商標登録をすることになったんですが、「冨士」だけでは登録できなくて、頭に「栄光」をつけたのです。 |