山田錦の歴史
●村米制度
村米制度イメージ
美嚢郡吉川町に立つ「酒造米記念碑」
藩政時代、伊丹、灘と全国にその名をとどろかせた銘酒群と、その蔵元への酒米として推移した播磨米であったが、明治維新の幕藩体制の崩壊とともに大名の有力な資金源であった酒米の需給体制が混乱し、酒米から収量の多い飯用米(食べるお米)に転換する農家が多くなった。
勢い質より量を求める傾向を帯びるなかで、この風潮を愁いる篤農家群が酒米としての米質の改良に勤しむようになった。一方、大名からの供給ルートが途絶えた灘の蔵元でも酒米確保が課題となってきた。
やがて民政の安定とともに酒への需要が増すことで、両者の意向が合致するところから生まれたのが、酒米共同売買予約制とでもいうべき「村米制度」である。
当時の記録「兵庫県郡役所議事録」によると、「明治26年12月、奥吉川村野瀬において山田篤次郎氏等が発起になり、百難を排し苦心の結果、元鳥居米(※1)に擬し改良米50石を作り、これを標本として摂津西宮醸造家辰馬悦蔵氏(※2)に交渉し、取引を開始したるに、頗る(すこぶる)好結果を得たり、茲(ここ)に改良米共同販売の萌芽を発するに至れり」とある。
また一説によると、明治24年〜25年頃加東郡米田村上久米集落が、灘の本嘉納商店(※3)と取引したのがはじまりだという人もある。
さらに共同販売のはじまりは明治33年に農会法、翌34年に産業組合法が施工され、各集落に購入販売組合が生まれたときだという説もある。
したがって出発点は明確ではないが、明治30年頃にこうした気運が高まっていったことだけは明らかであり、この動きが美嚢郡、加東郡はもちろんのこと多可、加西郡その他周辺地域に芽生え、それが隣村に広まり、集落単位、または数人のグループで、酒米の品質改善と販売に努めるようになった。これが村米制度のはじまりであった。
そして明治41年、米穀検査法が県令によって施行されるに至って、軌道に乗り安定したとされている。
村米地と蔵元のつながり
村米地とは旧播州の酒米主産地のすべてを指すのではなく、そのうちで特に米質改良、量目確保に早くから努力し、蔵元が「麹米、もと米」(酒質を決定付ける麹、酒母を造る米)確保に必要な村(集落)だけを指定した呼び名のことである。
それだけに明治、大正、昭和、平成と、双方は緊密につながっており、その関係は親戚付き合いに等しいとまでいわれている。
たとえば大正年間の大旱魃(だいかんばつ)の時は、酒造家から酒を汲み上げる揚水ポンプを借りて難を逃れたといわれ、逆に近年の阪神大震災の折りには、送電の止まった灘の蔵元に村米地からの発電機が持ち込まれ、操業を続けることが出来たこともあった。
ただしこうした相互扶助的な面はあるにしても、双方の基本的な関係は取引関係であり、高い品質と量の確保という基本命題の上に、村米地の指定取り消しや蔵元の交代など、常に適度の緊張関係が保たれて来たことも事実である。
たとえば戦前までは浜中次(はまなかつぎ)、山中次(やまなかつぎ)と呼ばれる中次業者が間に入り、蔵元の意向を汲んで、刈取り、乾燥、調整方法の改善から、品種の選定、肥培管理にいたる助言を加え、農家に対しては適切な蔵元の選定を行い品質の向上に努力した。
戦後、食料管理法のなかで形態は変わったが、村米制度は今日まで生き続け、この風土と体制が、県の酒米試験地から生まれた山田錦を今日の酒米の王者として育てたのである。
※1:藩政時代に名声を得た播磨米の一種
※2:現在の白鷹株式会社の創業者に当たる
※3:現在の菊正宗酒造株式会社の前身

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